長崎市内旅行3日目
ホテルのエレベーターホールから眺めた朝の展望&ホテルの部屋から見えた稲佐山中腹の住宅地に伸びる階段。傾斜が急な階段だよね。
朝風呂に入り朝食を食べた後は、ホテルの送迎バスで長崎駅へ送ってもらい、コインロッカーに荷物を預け、まずは市電で平和公園へと向かう。
今日も晴れ。日差しか突き刺さる( 一一)。また汗だくになるかと思うとちょっとうんざりなんですけど。
今回の旅行、天気予報的にこんなに晴れ間が続くとは思っていなかったので、日傘ではなく普通の雨傘をもって来ちゃったんだよね。仕方がないので雨傘さしていたんだけれど、日傘を持ってこなかったのが悔やまれる。
平和公園の平和のシンボル。他にもね、何でこの国から?っていう感じの国ばかりから送られた像がいくつか並んでいた。
平和公園から歩いて如己堂&長崎市永井隆記念館へ。私、永井博士の事は全然知らなかったんだけれど、人間的に尊敬すべき人だったのね。 永井博士は長崎医大に進学して医師に。下宿先のカトリック教徒だった娘と結婚して自分もカトリックに改宗。日中戦争では軍医として従軍し、国籍に関係なく治療にあたる。帰還後は放射線科医として活躍。物資不足の中、結核検査の直接透視で過量に放射線を浴び、30代後半で慢性骨髄性白血病、余命3年の診断を受ける。診断を受けた2か月後、長崎に原爆が投下された。長崎医大にいた博士は猛烈な爆風で吹き飛ばされ重傷を負うも、救護活動に専念。救護活動が一段落した3日後に帰宅し、台所跡に黒い塊で残っていた骨盤と腰椎、その傍に残っていたロザリオで妻の死を確認する。その後も医療活動に専念した博士。原爆投下の翌年に病床に付して以後は、2畳一間の如己堂に移り住み、43歳で亡くなるまで平和を祈り執筆活動に専念した。「長崎の鐘」など、博士の書いた本はかなり売れたようで、その印税を長崎市に寄付したり、戦争によってすさんだ子供たちの心を少しでも豊かにしようと私財を投じて図書館を如己堂横に増築したりと、人のためにつくした。
こういった行いをできる人って、キリスト教の精神というよりは人徳なんだと思うわ。 如己堂から歩いて浦上天主堂へ。
浦上のカトリック教徒は1867年に大弾圧を受け全国に流刑されるも、1873年に開放される。その後1895年から浦上天主堂の建築が開始され1925年に完成。しかし1945年、原爆投下によって天主堂は破壊され、その時崩れ落ちた北側の鐘楼が遺構として当時と同じ場所に残っている。
浦上天主堂の現在の建物は1959年に再建されたものだ。 浦上天主堂から原爆投下の爆心地、原子爆弾落下中心地碑へ。
いわゆる原子爆弾のグラウンドゼロだ。
1945年8月9日、11時2分
上空約500mで原子爆弾が爆発
見上げた空に、彩雲が出ていた。
この場所、今では公園のような感じになっていて、原子爆弾落下中心地碑の横には、浦上天主堂の側壁の一部が移築されている。被爆当時の地層の一部を見ることができる場所もある。土の中に埋まるお皿のかけらとかね、東日本大震災の津波の跡を思い出した。
最後に長崎原爆資料館へ。
ここは重くて暗い日本の歴史。
こんな惨状を見ても尚且つ核兵器や原発を持ち続ける人類っていったい何なんだろう。
いやだいやだ。
今回失敗だったのは簡易ガイガーカウンターを持ってくるのを忘れた事。長崎市の放射線濃度も測定してみたかった。
原爆関係の観光が終了したので、市電で長崎駅に戻り、最後の観光、サント・ドミンゴ教会跡資料館へと向かう。長崎駅からは徒歩15分ぐらいかな。
ここ、17世紀~19世紀あたりの遺跡みたいなんだけれど、出土したままの状態で展示されていて、正直、なんだかよくわからない遺跡だった(^^;)。
長崎市内で予定していた全観光はこれにて終了。
長崎駅に戻り、駅ビルで遅い昼食をとる。サント・ドミンゴ教会跡に行く途中に何か食べるとこないかな?と思っていたのだけれど、これといったお店が無くてランチタイムは14時ぐらいになっちゃった。長崎最後の食事はせっかくなので皿うどんにすることに。多分長崎の皿うどんは太麺が主流?な気がするけれど、太麺の皿うどんってただの焼うどんっぽいので、細麺のあんかけの方を選択。皿うどんにはからしが欲しいところだけれど、長崎にからしの文化はないのだろうか?置いていなかった。
そしてのども乾いていたので、昼間っから生ビール(^^;)。もう汗だくだったからね、美味しかった。
17時5分発のJALで帰宅。3列3列の小さな飛行機のせいか満席で揺れた。
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